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何か問題が起きたとき、反射的に「自分が悪かったのではないか」と考えてしまう状態は、特別な出来事がなくても日常の中に溶け込んでいることが多い。仕事で少し手間取ったとき、誰かの表情が曇って見えたとき、予定通りに進まなかったとき。その一つひとつに理由を探す前に、自分を責める思考が先に立っていた。
その感覚は、強い言葉で自分を否定するというよりも、「私がもっとちゃんとしていれば」という控えめな形で現れることが多い。表向きは反省や向上心のように見えるため、自分を責めている自覚すら持ちにくい。むしろ「こうやって考えられる自分は真面目だ」と感じていた部分もあった。

振り返ってみると、その考え方は一朝一夕に身についたものではなかった。周囲に迷惑をかけないように気を配ることや、期待に応えようと努力することを大切にしてきた中で、「原因は自分にあるはずだ」と考える癖が少しずつ積み重なっていったように思う。誰かに直接責められた記憶がなくても、空気を読むことや先回りすることが評価される場面は多かった。
その結果、何かがうまくいかなかったときには、状況や条件を確認する前に、自分の足りなさを探すのが当たり前になっていた。自分を責めることで、次は失敗しないようにしようと気持ちを切り替えていたつもりだったが、実際には心の中に小さな疲れが溜まっていっていた。
特に厄介だったのは、その状態が長く続くことで違和感を覚えなくなっていたことだ。多少落ち込むことはあっても、「みんなこんなものだろう」と受け止め、深く考えようとしなかった。自分を責めることは、反省の一部であり、成長のために必要なものだと信じて疑わなかった。
しかし、些細な出来事でも気持ちが沈みやすくなり、何も起きていない時間にも頭の中で過去の失敗を思い返すようになっていた。その状態が特別つらいと感じるわけではないものの、常に気持ちが張り詰めている感覚があった。
こうして振り返ると、自分を責めていた日常は、静かで目立たない形で続いていたことがわかる。それが当たり前だったからこそ、その考え方に疑問を持つきっかけもなかなか訪れなかった。(第1部 完了)
自分を責める癖は、苦しいだけのものに見えるが、当時の自分にとっては心を保つための役割も果たしていた。責めることで状況を整理し、納得しようとしていた部分が確かにあった。そのため、やめたほうがいいと分かっていても、簡単には手放せなかった。
何かがうまくいかなかった理由を「自分のせい」と結論づけると、原因がはっきりしたような気持ちになる。環境や相手の事情、偶然といった不確かな要素を考えなくて済み、話がそこで終わるからだ。「次はもっと頑張ろう」と自分に言い聞かせることで、前に進めている感覚もあった。
また、自分を責めていれば、誰かから強く指摘される可能性も減るように感じていた。先に自分を下げておくことで、周囲との摩擦を避けられるという無意識の計算が働いていたのかもしれない。そう考えると、自分を責める行為は防御の一種でもあった。
周囲の期待に応えたい、迷惑をかけたくないという気持ちが強いほど、自分を責める癖は強まりやすい。期待に届かなかったと感じた瞬間に、「自分の努力が足りなかった」と考えることで、その場をやり過ごしてきた。期待そのものを疑うよりも、自分を変えるほうが早く、安全だと感じていた。
その結果、多少無理をしてでも合わせることが続き、心の余裕が削られていったが、それでも「ちゃんとしている自分」でいられることに価値を見出していた。責めることで自分を律し、役割を果たそうとしていたとも言える。
ただ、その安心感は長く続くものではなかった。一つ責め終わっても、次の出来事が起こればまた同じ思考が繰り返される。終わりのない確認作業のように、自分の足りなさを探し続ける状態が常態化していた。
それでも当時は、「これくらい考えられるのは普通」「気にしないほうが無責任」と思い込み、負担として認識することすらなかった。自分を責めることで成り立っていた心のバランスは、静かに限界へ近づいていたが、そのことに気づく余裕はほとんどなかった。(第2部 完了)

自分を責める考え方が揺らいだのは、大きな出来事があったからではなかった。むしろ、あまりにもささいで、後から振り返ってようやく意味を持った出来事だった。そのときは特別な気づきがあったわけでもなく、ただ「今までと少し違う感覚が残った」という程度だった。
あるとき、いつも通りに準備をして臨んだにもかかわらず、結果が思うようにいかなかったことがあった。反射的に「やっぱり自分の詰めが甘かった」と考えかけたが、その瞬間、ふと立ち止まる感覚があった。確かに改善できる点はあったものの、それだけで全てを説明するのは無理があるように感じた。
状況を振り返ると、自分ではどうにもならない条件や、偶然の重なりも多く含まれていた。それまでは見ないようにしていた要素が、急に目に入ってきたような感覚だった。「これは本当に自分だけの問題なのだろうか」という疑問が、頭の中に残り続けた。
その後、似たような状況に置かれた他人を見たとき、自分とは違う見方をしていることに気づいた。その人が同じ結果になっても、「大変だっただろうな」「条件が厳しかったのだろう」と自然に考えていた。そこには責める気持ちはほとんどなく、状況全体を見て判断していた。
その瞬間、自分に対してだけ極端に厳しい基準を当てはめていたことに気づいた。他人には向けない言葉や評価を、自分には当たり前のように向けていた。その差に気づいたことが、これまでの考え方を少しずつ崩していった。
さらに、「うまくいかなかった=自分が悪い」という単純な構図以外にも選択肢があると知ったことは大きかった。結果には複数の要因が重なっていること、努力と結果が必ずしも一致しないことを、頭ではなく実感として受け止め始めていた。
その出来事以降、自分を責めそうになるたびに、少しだけ立ち止まれるようになった。すぐに考え方を変えられたわけではないが、「別の見方もあるかもしれない」と思える余白が生まれた。その小さな揺らぎが、自分を責め続けてきた流れを変える最初のきっかけになっていた。(第3部 完了)
考え方が切り替わった出来事があっても、自分を責める癖が完全になくなったわけではない。今でも、思い通りにいかなかったときや、余裕がないときほど、以前の考え方に引き戻されそうになる。ただ、以前と大きく違うのは、その流れに気づけるようになったことだ。
以前は、自分を責める思考が浮かんだ瞬間、それが事実であるかのように受け入れていた。今は、「またこの考え方が出てきたな」と一歩引いて眺めることができる。正しいかどうかをすぐに判断しようとせず、そう感じている自分がいることを認めるだけで、気持ちの揺れは少し穏やかになる。
立ち止まったあとに考えるのは、「他の見方はないか」という一点だけだ。必ずしも答えを出す必要はなく、白黒をつけなくてもいいと自分に許可を出す。その小さな余白が、心を追い詰めすぎないための支えになっている。
自分を責めなくなっていく過程で感じたのは、完璧を目指すことと、現実を受け止めることは別だということだった。できなかった点を見ること自体が悪いのではなく、それだけで自分全体を評価してしまうことが負担になっていた。
今は、できたこととできなかったことを同じ重さで並べて見るよう意識している。うまくいかなかった理由も、努力不足だけに限定せず、状況やタイミングといった要素を含めて考える。そのほうが、次にどうするかを考えるときも、気持ちが極端に沈まずに済む。
自分を責めない生き方は、一直線に進むものではない。調子のいいときは自然にできても、疲れているときや不安が強いときには、また同じところでつまずく。それでも、「戻ってしまった」と考えるのではなく、「また気づけた」と捉えるようにしている。
責める癖が完全になくならなくても、それに振り回される時間が少しずつ短くなっていけば、それで十分だと思えるようになった。完璧でなくても、揺れながらでも、自分と向き合い続ける姿勢そのものが、これからの支えになっていく。そう感じられるようになったことが、今の自分にとっての大きな変化だ。

